「客なんだから、言うことを聞け」
この空気を否定すると、接客を軽く見ているように受け取られることがあります。けれど、ここで客批判をしたいわけではありません。
「お客様は神様です」という言葉は、そもそも客に無限の権力を与えるための言葉ではありませんでした。歌手が自分に課した、仕事の規律だったのです。
そのうえで、はっきり言っておきます。
お客様は神様ではない。
客と売り手は、約束を交わす対等な相手です。
原点にあったのは、客の権力ではなく演者の責任
「お客様は神様です」という言葉で知られるのは、歌手の三波春夫です。
しかし、三波春夫が小売店や飲食店の接客標語として、この言葉を掲げたわけではありません。
三波春夫の公式サイトによると、発端は1961年の春。地方都市の学校の体育館で、司会の宮尾たかしから「お客様をどう思いますか」と聞かれ、「お客様は神様だと思いますね」と答えたことでした。
ここでいうお客様は、店で商品を買う人ではなく、歌を聴きに来た聴衆です。しかも「何をしても許される存在」という意味ではありません。
三波春夫は、舞台に立つとき、神前で祈るように雑念を払い、澄んだ心で芸を届ける。その心構えを「お客様を神様とみる」と表現しました。入場料を払って来てくれた人へ、その代価を持ち帰ってもらう。演者である自分を律する言葉だったのです。
原点にあったのは、客の権力ではなく、演者の責任だった。
私は、この原意に反対しません。むしろ、仕事をする人が受け継ぐべき姿勢です。
お金を受け取った以上、相手の時間と期待を雑に扱わない。慣れた仕事でも手を抜かない。自分の都合や感情を商品へ持ち込まず、その一回に力を尽くす。
問題は、その言葉の主語が入れ替わったことです。
短い言葉だけが残り、主語が消えた
三波春夫の返答は、その場で大きく受けました。評判を聞いた各地の主催者から、次の公演でも同じ場面を求められ、繰り返される言葉になりました。
さらに、漫才トリオのレツゴー三匹が「三波春夫でございます。お客様は神様です」という形で広め、短く覚えやすい決まり文句として定着しました。
言葉が広がるとき、長い説明は残りにくいものです。
「私は舞台に立つとき、心を澄ませ、入場料に見合う価値を届けるために、客席を神前のように考える」
これでは長い。
けれど「お客様は神様です」なら、一息で言えます。耳にも残り、店の標語にもできます。
そうして言葉が短くなる過程で、いちばん大事な主語が消えました。
演者が「私は最高の仕事をする」と自分に向けた言葉が、客の「私を満足させろ」という要求へ変わったのです。
前者は自分への規律です。後者は他人への命令です。
同じ一文でも、誰が誰に向けて使うかで、意味は反転します。
対等とは、力の差を無視することではない
私は、客と売り手は対等だと考えています。
ここでいう対等とは、持っている情報や交渉力が同じという意味ではありません。人としての価値に上下がなく、双方が約束を交わす当事者だという意味です。
売り手には、商品やサービスについて知っている情報があります。価格や条件を決め、説明文を書く側でもあります。買い手は、限られた情報から選び、お金を払います。
力に差があるからこそ、売り手には説明する責任がある。消費者保護の法律や制度も、この差を前提に作られています。
対等という言葉を使って、売り手の責任を薄めてはいけません。
同時に、買い手が客であることを理由に、相手の人格まで支配してよいわけでもありません。
対等とは、責任を五分五分に割ることではない。それぞれの立場に応じた責任を引き受けることです。
正当な苦情と、暴言は分けて考える
商品に欠陥があった。説明された内容と違った。約束した日までに届かなかった。
こうした問題について、買い手が説明や改善を求めるのは当然です。
消費者庁のカスタマーハラスメントに関する案内でも、事業者の問題行動などに対して消費者が適切に意見を伝えることは、正当な権利の行使だとされています。
苦情を言う人を、すべて迷惑客として扱ってはいけません。
一方で、正当な要求があることと、その実現手段まで何でも許されることは別です。
怒鳴る。人格を否定する。長時間拘束する。無関係な謝罪を迫る。契約した範囲を超えた無料対応を要求する。
要求の中身に理由があっても、手段が不当なら、それは正当な苦情ではありません。
買い手を黙らせない。働く人にも我慢を強いない。
この二つは両立します。必要なのは「客か店か」という陣取りではなく、事実と約束へ戻って話すことです。
売り手は、約束を曖昧にしない
客を神様から人間へ戻すなら、売り手も「善意で頑張る人」から、約束に責任を持つ当事者へ変わらなければなりません。
価格はいくらか。何を渡すのか。いつまでに渡すのか。含まれないものは何か。問題が起きたとき、どこへ連絡すればよいか。
売り手の責任は、これらを先に明らかにすることです。
「お客様のために全力を尽くします」という言葉は、気持ちは伝わっても、取引条件にはなりません。全力の中身は人によって違うからです。
それよりも、「申込みから3営業日以内に納品します」「修正は2回まで含みます」「この商品は個別相談を含みません」と書くほうが、買い手は判断できます。
敬意を、曖昧な献身ではなく、明確な約束へ変える。
これが、売り手側の仕事です。
買い手にも、相手の仕事を尊重する責任がある
買い手の責任は、黙って我慢することではありません。不満を、相手が対応できる要求へ変えることです。
「最悪だ」だけでは、どこを直せばよいか分かりません。
「商品ページにはAと書かれていたが、届いたものはBだった。Aの内容を提供するか、難しければ返金してほしい」
ここまで書けば、事実、約束、求める対応が分かります。
また、取引が始まる前なら、買い手は店を選べます。そして原則として、売り手にも契約を結ぶか、誰と結ぶかを選ぶ自由があります。
法務省の解説では、契約自由の原則について、契約を結ぶかどうか、誰と結ぶか、どのような内容にするかを当事者が自由に決められると説明しています。
ただし、これは何でも自由という意味ではありません。法令による例外があり、一度成立した契約には拘束力があります。差別的な取扱いや、消費者保護のための規制を無視してよいわけでもありません。
選ぶ自由と、成立した約束を守る責任。この二つは一組です。
敬意は、身分ではなく行為へ向ける
神様を降ろすと、商売が冷たくなるのでしょうか。
私は逆だと考えます。
神様という言葉を外したほうが、互いの行為を具体的に見られます。
売り手は、買ってくれた事実に感謝する。買い手が使った時間と、払ったお金を当然と思わない。改善につながる意見を受け取ったなら、その手間にも敬意を払う。
買い手は、作ってくれた事実に感謝する。誰かが作り、仕入れ、店を開き、説明し、届けたから、自分は選んで買うことができた。その仕事を当然と思わない。
敬意を向ける先は、身分ではありません。相手が実際にした行為です。
「買ってくれてありがとう」と「買わせてくれてありがとう」。二つの感謝が行き交うところに、次も安心して取引できる関係が生まれます。
まとめ。神様ではなく、約束を交わす人として
「お客様は神様です」という言葉の原意には、演者が自分を律し、対価に見合うものを持ち帰ってもらおうとする厳しさがありました。
その厳しさは受け継ぎたい。
けれど、客を人間以上の存在にし、売り手へ無限の我慢を命じる使い方は、ここで終わりにしたいのです。
客と売り手は、神様と従者ではありません。
約束を交わし、それぞれの責任を果たす相手です。
次に何かを売るとき、あるいは買うとき、二つだけ書いてみてください。
「相手に求めること」を一つ。
「自分が果たすこと」を一つ。
その二つが見えたところから、商売は上下関係ではなく、ともに価値をつくる関係へ戻ります。
よしだ健康